わたしは上杉謙信の颯爽とした歴史上の印象が大好きです。当然ですが海音寺潮五郎氏著の「天と地と」や津本陽氏著の「武神の階(きざはし)」などは読んでいます。春日山城はその謙信の居城として高名な城郭なので、きっと一代観光地となっているかと思って訪れてみたのですが、寂れていることに驚きました。
最初にここを訪れたのは2000年頃だったと思いますが、登り口に土嚢があって、本丸へ土を持っていって頂けませんか?と書かれていたのを覚えています。軽いので1袋を担いだのですが、180mを担ぐのはしんどかったです、だんだん肩に土嚢がくい込んできて痛くて仕方ありませんでした。本丸に土を捨てた跡の土嚢は記念に貰って返りました。今も大事に保管してあります。
こんな事もあり、最初の訪問の印象は殆ど何も残っていませんでした。だから出来るだけ早い機会にもう一度訪れたいと思っていました。2004年の秋にその機会を作ることが出来ました。このブログはそのときに思い出です。>>続きを読む


上杉謙信を祀る神社です。明治34年(1901)に建立されました。山形県米沢市の上杉神社より分霊されました。わたしは何を勘違いしていたのか、上杉神社がこの春日山神社から分霊された元のこのときまで思っていました。
春日山城の中腹から山麓にかけて、多数の道が整備されています。仲には写真のように「大手道」と案内板が掲げられている道路をありました。この大手道は江戸時代の古地図にも掲載されているようです。
山頂の本丸跡へ至道は幾筋かあります。わたしが登ったのは春日山神社脇の上杉謙信像がたつ下の道から登りました。
標高180m、周囲を遮るものはありませんが樹木が視界を遮っているので、四囲をぐるりと見渡せるわけに行かないのが、残念です。
本丸跡です。驚くほどせまいです。天守台跡と隣接しています。
上杉謙信の時代の毘沙門天の青銅製の像の複製が安置されています。尊像は上杉家と共に会津、米沢へと移りましたが、昭和3年に高村光雲が尊像を修理した際に尊像のかけ尊時を腹中に収めた御分身を作りました。
本丸と共に重要な施設だったようで、帯郭が設けられていました。直江家は長尾為景(謙信の父)から長尾家の重臣として仕えていた家系です。屋敷跡は広大で、歩いた感覚では天守台のある本丸よりも面積は広く感じました。
通称搦手、あういは附内口と呼ばれています。現在の春日山神社からここへ登る道が通じていて、この空堀がそれを断ち切っています。普段は橋が架かっていました。
入口から山道と変わらない歩道を登って行くと最初に現れるのが三の丸跡です。長い年月の間に樹木が茂り往事を忍ぶよすががありません。わずかに地面が平らなことだけが、ここに建物があり三の丸と呼ばれていたことを分からせてくれます。(三の丸跡の写真)